木造漁船からステンレス製ケミカルタンカーへ。挑戦の始まり
廣渡
本日はよろしくお願いいたします。
会長
こちらこそ、よろしくお願いします。
社長
よろしくお願いします。
廣渡
さっそくですが、福岡造船さんの成り立ちについてお聞かせください。
会長
戦後まもなくの1947年、前身の「興洋造船株式会社」が福岡市の沿岸部に設立されました。1957年、大分県臼杵市で鉄工所を経営していた私の祖父が興洋造船を買収し、翌年に「福岡造船株式会社」へと社名変更しました。これが当社の原点です。
廣渡
買収からのスタートとは、激動ですね。
会長
各社とも木造の漁船を中心に建造していましたが、その後の漁船は主要部分を鉄鋼で製造する鋼船に切り替わっていきます。福岡造船は他社との競合を避けるため、漁船から貨物船や運搬船などの商船建造へとシフトしました。
廣渡
漁船と商船では設計が全く異なりますよね。大胆な決断だったと思います。
会長
1970年代にかけて、日本の造船所はヨーロッパ船主向けの建造を始めました。仕様の違いから思うような船を造れず、倒産が相次ぎましたが、福岡造船は運よく生き残れました。その後、ステンレス製ケミカルタンカーの需要が出てきたのを察知して、他社に先駆けて建造に踏み切りました。
廣渡
ケミカルタンカーは、液体の化学薬品を運搬する船で、物流の要といえます。当時、建造には相当なハードルがあったと思います。
会長
これまでにない難易度の溶接技術が必要でしたが、社内にノウハウがなくても「やってみよう」という気概がありました。
廣渡
その挑戦があったからこそ、ケミカルタンカーは福岡造船さんの主力事業に成長しました。
会長
その後、造船業界はオイルショックによる不況に見舞われ、受注船のキャンセルが大量に発生します。しかし、福岡造船の場合、販売先を東南アジアから北欧方面などに多角化しており、比較的安定した操業で乗り切ることができました。
親会社の倒産にリーマンショック。耐えて苦難を乗り越える
廣渡
敬二会長が社長に就任されたのはいつでしょうか。
会長
私は1979年に福岡造船の取締役となり、1986年から社長を務めました。当時の親会社「田中産業株式会社」がまとめて受注活動を行い、グループ傘下の造船所が建造する形態でした。
廣渡
ちょうどプラザ合意による円高が進行していた時期ですね。影響はありましたか。
会長
実は、社長に就任してまもなく田中産業が倒産しました。円高で競争力を失ったのが原因です。福岡造船は、グループ会社のなかでは独立性が高く技術力もありましたが、新造船の受注が全くできない時期が続きました。
廣渡
就任直後に大変でしたね。造船業は、急な不況や倒産と背中合わせで、一気に資金繰りが詰まることもある業界です。生き残るポイントはあったのでしょうか。
会長
無理な仕事をしないということに尽きます。焼却炉を製造するなど、造船以外の仕事で何とか対応しました。よく例えとして用いるのですが、美容師は髪を切る前に必ずくしを当てますよね。はさみでいきなりドサッと切っていっても上手に仕上がりません。
廣渡
不況時には、くしを当てて状況を見極める慎重さが求められますよね。我慢して、セオリーを貫いたといえるかもしれません。
会長
不況の予兆を見逃さず、赤字になれば無理をしない。この経営方針は、福岡造船の大きな礎になっています。
廣渡
不況を打ち返すターニングポイントはありましたか。
会長
1990年代後半ですね。高付加価値のステンレス製ケミカルタンカーへの特化を進めました。北欧船主の期待に応える形で、福岡造船を含めた日本の技術力が世界から評価されていきました。
廣渡
ケミカルタンカーへの移行ができて、それが得意技になったということですね。
会長
特に情報が重要でした。ヨーロッパの人たちが業界をリードしており、彼らがどう動くかによって、こちらの対応も決まります。ケミカルタンカーによる輸送が中心になると読み切って動きました。
廣渡
潮流をつくるコミュニティに入らないと今後の話は見えてきません。一発の金額が大きい業界ですから、読み違いは大きな損失につながります。不況の話に戻りますが、リーマンショックはどうでしたか。
会長
半年間工場を休止するなど大きな影響がありました。業界全体として在庫調整が始まり、誰も発注しなくなりました。つくれば赤字です。ここでも社長就任時の経験が生かされました。
廣渡
私もリーマンショックの不況時に、ちょうど社長になりました。苦労は身に染みて分かります。何度も不況を乗り越えたご経験に頭が下がります。
コロナ禍の社長交代。反転攻勢へ工場建て替えを決断
廣渡
ここで嘉一社長に伺います。敬二会長は、ご家庭ではどのようなお父様でしたか。
社長
父が家にいたのは、週1回くらいでした。土曜日も出勤ですし、働き方改革とかないですから。もちろん、今は違いますけどね。
会長
私が社長になったのは30代でした。それからはとにかく時間がなく、家に帰った記憶は多くありません。
廣渡
いわゆる昭和的な働き方ですが、それがスタンダードな時代でもありました。
社長
でも、父は明るく生活していましたよ。私が生まれてまもなく、親会社の田中産業が倒産しています。大変だったと思いますが、子どもに苦労を意識させないという感じでした。
廣渡
続けて、嘉一社長ご自身の経歴をお聞かせいただけますか。
社長
2009年に大学を卒業して、福岡造船に就職しました。蛙の子は蛙というか、自然と父の背中を追っていた気がします。その後、海運会社や銀行にも出向という形でお世話になりました。
廣渡
社会人経験のなかで、今の経営に生きている出来事はありますか。
社長
銀行員時代はシンガポールで勤務していました。現地で多様な人と出会い、リアルな一次情報に触れられたことが最大の収穫でした。同じ1時間の面談であったとしても、日本国内と現地とでは情報の密度が圧倒的に異なります。
廣渡
海外で会うとフランクな話になりますよね。日本の会議室だと少し身構える人でも、海外なら食事しながら話せることも増えます。そして2020年、新型コロナウイルス禍の真っただ中で社長に就任されました。
社長
大変でしたが、ある意味で腹を括りました。完全に受注が止まったため、逆に将来の戦略を練り上げる好機と捉えました。
廣渡
具体的にはどのようなことに着手されたのでしょうか。
社長
政府の援助を活用して、工場の建て替えを決断しました。
廣渡
先行きが不透明な時期の大型投資ですね。
社長
最初は順調に終わると思いましたが、現場からの要望が意外と多く上がってきて、投資額は当初の1.5倍に膨らんでしまいました。しかし、コロナ禍で受注が止まっていたからこそできた決断です。
廣渡
アグレッシブな経営判断ですね。その後の物価高騰や人手不足を考慮すると、絶妙なタイミングでした。
社長
当時、九州では半導体世界大手TSMCの熊本工場建設が進んでいて、全域で建設関係の人手不足が顕著でした。幸い納期は遅れなかったので、投資額の上昇も最小限に抑えることができました。
廣渡
大胆な判断が功を奏した面もあると思います。
社長
コロナの隔離期間が終わるのを前に、ヨーロッパに営業部隊を派遣すると決めました。「10隻取るまで帰ってくるな」と冗談交じりに言いました。
廣渡
10隻とは驚きました。あえて高いボールを投げる感じですね。
社長
現地での商談を頑張ってくれたので、8隻受注できました。ほっとしました。
事業承継の困難さは想像以上。組織立ったサポートが必要に
廣渡
AGSとのお付き合いはいつから始まりましたか。
会長
2019年からです。相続や事業承継のことを、本気で考えなきゃいけない時期でした。それ以前は、個人事業主の税理士にお世話になっていました。
廣渡
きっかけは金融機関の紹介だったと伺っております。
会長
その当時、2社ほどグループ会社が増えたこともあり、状況は複雑でした。もっと組織立って、幅広いサポートが受けられる会計事務所にお願いしようと思い、AGSさんに頼むことにしました。
廣渡
ありがとうございます。事業承継は高い専門性が求められるだけではなく、組織戦・情報戦の要素があります。「類似事例にどう対応したか」とか「どんなスキームが適しているか」など、地元の事務所だと対応が難しい部分もあります。
社長
いざ事業承継を目の前にすると、想像以上に時間がかかることが分かって驚きました。
廣渡
そうですよね。相続税の最高税率は55%に上り、「ただ支払っていたら3世代で資産がなくなる」ともいわれます。オーナー経営者にとって早期かつ戦略的な対応が不可欠です。
社長
グループ会社が増えるなど、会社状況は当初から相当変わっているのですが、各セクションの方が連携して柔軟にサポートしてくださっています。
廣渡
現在、経済産業省はファミリービジネスでしっかりした中堅・中小企業をつくる方針を掲げています。優良企業を育て、オーナーが安定的に事業承継する重要性を意識した取り組みです。福岡造船さんはまさにその代表格で、AGSとしてもお役に立ててうれしいです。
社長
AGSさんのサポートは、業界の垣根を超えた知見が魅力だと感じます。2月に参加した「AGS MEET UP 2026」では、多種多様な業界の方々と交流でき、有意義な時間を過ごせました。
廣渡
MEET UPは、お客様同士でビジネスにつなげてほしいという考えで開催しました。ある種のビジネスマッチングを会計事務所が主導するケースは少ないと思います。AGSとしては、福岡造船さんのように中堅以上の会社さんは、親和性が高いと感じています。(AGS MEET UP 2026の開催レポートはこちら)
造船は日本の成長産業に。重みを増す経営判断
廣渡
足元の経営課題と、今後の展望をお聞かせください。
社長
さまざまな課題がありますが、一番は必要な人材をいかに集めるかという問題ですね。福岡造船だけではなく、日本の製造業全体が人手不足で大変だと思います。
廣渡
新卒の採用はいかがでしょうか。
社長
幸いにも順調ですね。福岡に住みたいという若者が多い印象があります。
廣渡
福岡市の中心部という立地は大きな武器ですね。
社長
一般に造船所は、山を越えた海沿いに立地しています。福岡造船のように、都市部でやっているところは少ないです。インスタグラムなどSNS発信にも力を入れており、その効果も大きいと思います。
廣渡
船の完成を祝うイベント「進水式」も人気がありますよね。
社長
船が沖に出る瞬間は迫力があり、平日でも2,000人ほどが見に来てくださいます。
廣渡
船の建造でいくと、今後必要な取り組みはどのようなことでしょうか。
会長
特に専用ロボットの開発やAIによる効率化といった分野が鍵になると思います。単独でできない分野は、他社との協調が視野に入るかもしれません。
廣渡
政府の日本成長戦略会議では、造船が重点投資対象に位置付けられました。足元の世界シェアを見ると、中国と韓国が大半を握っている状態です。
社長
中国も技術力が上がっており、安価な中国船に乗り換える層は一定数います。その層を呼び戻して「福岡造船から買いたい」と言ってもらえるかどうか。この戦略が問われていると感じています。
廣渡
中国、韓国はやらないような隙間を狙うという戦略も考えられますね。
社長
彼らが「5年使えれば十分」というボリュームゾーンを狙うなら、福岡造船は「20〜30年安全に稼働する船」を提供します。高品質で堅牢な船を建造し、ブランド価値を確立させていきたいと考えています。
廣渡
日本の造船業はこれから重要な局面を迎えそうですね。
社長
最近は船の環境対応も非常に厳しくなっています。二酸化炭素の排出規制などをクリアできる船がスタンダードになっていきます。課題は山積みですね。
廣渡
環境規制の強化など、クリアすべきハードルは高いですが、これまでの危機を乗り越えてきた福岡造船さんであれば、必ず新たな活路を切り拓かれると確信しております。本日は貴重なお話をありがとうございました。
会長
こちらこそありがとうございました。
社長
引き続きよろしくお願いします。
【福岡造船株式会社のご紹介】
1947年、前身の興洋造船株式会社が福岡市で操業開始。1958年に社名変更して福岡造船株式会社となった。日本で初めてステンレス製ケミカルタンカーを手掛け、現在までに200隻以上の建造実績がある。セメント運搬船やフェリーを含めた豊富なラインナップと、技術力に裏打ちされた高品質の製品は、海外の船主からも引き合いが強い。生産拠点として、福岡市と長崎市に自社工場を構えているほか、グループ傘下に複数の造船所を抱える。現在、航行中の二酸化炭素排出量を抑える取り組みの一環として、液化天然ガスを燃料に用いるケミカルタンカーの開発・建造に注力している。
福岡造船のホームページはこちら