2019年に創業150周年を迎え、銀座を代表する百貨店として多くの人々から親しまれてきた松屋。
新時代に向けて「デザインとは、気遣いです。」を標榜し、コロナ禍の逆境の中、「デザインの松屋」として革新を続ける代表取締役社長執行役員の秋田正紀氏に、AGSコンサルティングの廣渡嘉秀が話を伺った。
株式会社松屋 代表取締役社長執行役員 秋田正紀 様
松屋銀座の誕生と縁
廣渡 本日はありがとうございます。ちょうど5月に株主総会を終えられたタイミングかと思いますが、営業時間の短縮や臨時休業に加え、世界各国の出入国規制でインバウンド需要がなくなるなど、大変な状況が続いていますね。
秋田
そうですね。ただ、少しずつ明るい兆しが見えてきた気がします。株主総会も、昨年はいつもの会場が使えない事態となってしまい、松屋銀座の8階で急遽開催するアクシデントに見舞われたのですが、今年は例年どおり無事開催することができました。
総会にもご出席いただいている御社の古田先生とは、先生の監査法人時代も含めるともう20年来のお付き合いになるでしょうか。
廣渡
松屋さんにはいつも本当にお世話になっています。弊社の古田と私は、もともと公認会計士試験の受験仲間で、19歳の時からの付き合いなんですよ。
別の道を歩んでいた彼をAGSに誘ったことが、ある意味御社とのご縁ということになります。
長年お付き合いいただいているお客様との歴史こそ、私たちAGSのウリだと考えているものですから、今回はお時間いただいた次第です。
秋田 歴史というと、松屋といえばみなさん銀座というイメージが強いかと思いますが、初代・古屋德兵衛は甲州山梨県の出身で、鶴屋呉服店を創業したのが、当時行商していた横浜でした。
廣渡 もともとは「鶴屋」さんだったんですよね、最初伺った時には驚きました。
秋田
その後、神田鍛冶町の今川橋にあった松屋呉服店を買収して、翌1890年に東京進出を果たします。
ただ、東京で活躍するためには知名度の高い「松屋」を名乗った方が良いだろうということになり、社名を松屋に変えてしまった。今日はつけていませんが、社章は松の中に鶴がいるデザインです。
廣渡 ずいぶん縁起のいい社章ですね(笑)。
秋田
「松」のほうは狙っていた訳ではなかったのですが(笑)。
その後ある時、松屋の幹部が銀座通りを車で走っていて、建設中のビルを見つけた。「どうしてもここで店をやりたい」と、当時施主だった徴兵保険(現在の生命保険)会社にお願いして、事務所用に建てられていたところを商業用に変更してもらったそうです。これが銀座店のスタートとなりました。
廣渡 すごいお話ですね。その幹部の方がそのビルを見つけなかったら、今の松屋銀座はなかったかも知れない。
秋田
それが1925年です。本当はもう少し早くオープンする予定だったのですが、ちょうどその2年前に関東大震災に見舞われました。
ここに飾ってあるのは、開店当時の絵を写真パネルにしたものです。
廣渡 相当贅沢なつくりですね。
秋田 当時は東洋一とも言われたようです。このように外光を取り入れ、中央に広々とした吹き抜けを配置した設計は、パリなどの百貨店で見られます。
廣渡 当時から今のような広さだったのでしょうか?
秋田
銀座3丁目の(銀座通り側の)ワンブロック全体を占めるようになったのは、東京オリンピックのあった1964年。ただ当時、現在ルイヴィトンのある一角は東京銀行が入居されていて、この場所を譲っていただいたのが99年でした。
これを機に銀座店をリニューアルし、外壁に透明感のあるガラス面を採用しました。併せてCI(コーポレートアイデンティティ)カラーをブルーからホワイトに一新したのですが、このあたりは全てグラフィックデザイナーの原研哉さんにデザインしていただいたものです。
廣渡 ちょうど普及し始めたLEDでガラスの外壁をライトアップするなど、ずいぶん目立っていたと記憶しています。浅草店はいつから営業されているのでしょうか?
秋田 浅草店は1931年、東京初のターミナルデパートとして開業しました。当時は東武鉄道が百貨店をまだ手掛けておらず、創業者が同じ甲州出身というご縁で、お声がけいただいたと聞いています。
廣渡 たしかにターミナルデパートであれば、鉄道会社自身が出店しているほうが自然ですよね。
秋田 東武百貨店の歴史は比較的新しく、創業されたのは戦後なのですが、その際には松屋もお手伝いさせていただいたという記録があります。ターミナルデパート自体は大阪の方が古く、1929年、小林一三翁が阪急百貨店を開業させています。
秋田社長の軌跡と、松屋との出会い
廣渡 大阪といえば、秋田社長はもともと阪急電鉄のご出身でしたよね。
秋田 そうです。私は生まれも育ちも兵庫県芦屋市で、大学時代は東京で過ごしたのですが、山と海が見えないことがショックでした。それもあってヨット部に入ったりもしましたが、自然豊かな関西に帰りたいと思い、阪急電鉄にお世話になることにしました。すごく大切に育てていただきましたね。半年かけて運転士の免許まで取らせていただいた。
廣渡 電車の運転までされていたんですか!?それだけ大切に育てた秋田社長が後に辞めてしまうことになって、阪急電鉄としては相当ショックだったでしょうね。
秋田 松屋への転職は、当時の松屋社長だった義理の兄から誘われました。関西は好きだったのですが、ビジネスの最前線としての東京に興味があったことと、小売業をやってみたかったことが決め手でしたね。
廣渡 阪急百貨店への異動は希望されなかったんですか?
秋田 今もそうだと思いますが、阪急電鉄と阪急百貨店は対等の兄弟会社で、現場での交流はほとんどありませんでした。鉄道系の百貨店は鉄道会社と親子関係であることが多いのですが、阪急はそうではありませんでした。
廣渡 それで、東京で小売を経験できる松屋に転職された。
秋田
特に、「銀座」という響きに惹かれたところがありますね(笑)。当時はまだ、バブルの余韻が残っている時代でした。しかし、その頃の関西は既に乗降客数が減少を始めており、バブルの波にも乗れていなかった。ダイナミックな東京で力を試したいと思ったのです。
ただ、入社した途端にバブルが弾けてしまい、世の中甘くないなと(笑)。
廣渡 その義理のお兄さんというのが、先日名誉相談役になられた古屋勝彦氏と伺いました。
秋田 古屋は私の実姉の夫にあたる人で、私の入社した1991年当時、社長就任3年目でした。学生時代から家に遊びに行くなどして交流もあったのですが、当時はまさか自分が松屋に入社するとは思ってもみませんでしたね。
廣渡 私が社会人デビューしたのも、ちょうどその頃の90年で、当時は景気も良くて楽しいことばかりでした。バブルはすぐに終わっちゃいましたが(笑)。
秋田 松屋でのキャリアは、百貨店のみなさんがバブル崩壊でもがいている時期にスタートしたので、私にとっては逆に良かったと思っています。入社直後の2年間は新宿伊勢丹で研修させていただいたのですが、売上が減少しはじめたり、新宿に髙島屋がオープンしたりと大変な時期で、とても勉強させていただきました。
業界再編のなかで貫いた、独自路線と銀座らしさ
廣渡 伊勢丹で修行されていたとは少し意外な気がしますが、伊勢丹と松屋は親密なんですか?
秋田 もともと共同仕入機構を両社が中心になって運営するなど、昔から深い関係にありました。私自身、2年間修行させていただいた経緯もあって、現社長などもよく存じ上げています。
廣渡 2008年に三越伊勢丹ホールディングスが誕生した時はびっくりしました。業界再編が進む中で、松屋さんの動向は相当注目を集めたのではないですか?
秋田
ちょうど私が社長に就任したばかりの時期で、ずいぶん取材を受けたものです。06年に阪急と阪神、07年に大丸と松坂屋がそれぞれ経営統合を果たすなど、百貨店業界にとっては激動の時代でしたね。
松屋としては業界再編には乗らず、独自路線を貫くと宣言しました。規模が違うということもありましたが、何より、銀座という街を大切にしたかった。他社と一緒になってしまうと、私たちが目指す「銀座らしさ」を見失ってしまうと結論づけたからです。
廣渡
これは百貨店業界に限りませんが、私たちもさまざまなM&Aに関与するなかで、個性を維持していくことは難しいと感じます。特に、三越伊勢丹のケースは両者の力関係が比較的拮抗していたうえに規模も近かった。こういうケースはなかなか難易度が高いでしょうね。
秋田 そうですね。こうした一連の業界再編を経て、伊勢丹とは親密でありながら、三越が銀座で競合してしまうという複雑な関係になってしまいました。ただ、小売業界全体を見渡してみると、エリア内の店同士が競争する時代から、エリア間の競争にシフトしてきています。エリアとしての魅力をいかに高めるかが重要です。例えば、GINZA SIXのように話題性のある商業施設ができると、結果的に松屋にも人が流れてくるので、お互いが潤うことになるのです。
廣渡 たしかに、GINZA SIXはかなり高級路線ですからね。特に銀座という街は、単に買い物をするという以上の意味をもっている気がします。
秋田
昔でいうと、六本木ヒルズができた際、地方からいらっしゃった多くのお客様が松屋の総合案内所で「六本木ヒルズに行くにはどうしたらよいか?」とお尋ねになられました。みなさん話題のスポットに行かれる際、せっかく東京に来たのであれば、銀座にも寄って行こうと思われます。まさに銀座は、日本の商業施設の中心といえるのではないでしょうか。
コロナ禍で改めて感じる、対面販売の本質
廣渡 2007年の社長就任から15年目を迎えた今、どのようなことをお考えですか?
秋田
ふり返ってみると、ジェットコースターのようでした(笑)。前任の社長が断行してくれたリストラなどの効果がようやく表れはじめたタイミングでリーマンショックとなり、そこから立ち直ったと思ったら東日本大震災が起きてしまう。その後、中国人観光客による、いわゆる「爆買い」で最高益を経験した年もありましたが、今度はコロナ禍ですから。
もちろん、こうした浮き沈みは百貨店に限ったことではありませんが。
廣渡
百貨店は特に消費の影響を受けやすいのでしょうね。
ただ、さすがに今回のコロナ禍はダメージのスケールが違いますよね。お店が開けられない訳ですから。
秋田 百貨店のお客様はご高齢の方が少なくありませんし、そもそも私たちのビジネスモデルは「店頭で楽しんでいただく」ことが大前提ですから、お店が開けられないのがどれだけ辛いことか、身に染みて感じた1年でした。
廣渡 松屋の150年という歴史のなかで、今回のコロナ禍は戦後最大の試練となっているような印象を受けます。
秋田 おっしゃるとおりですね。戦後、銀座店をはじめとする複数の店舗が、GHQ(General Headquarters/連合国最高司令官総司令部)によりPX(post exchange/軍隊内で飲食物や日用品などを売る店)として接収されました。銀座店でいうと、1952年までの7年間、営業できなかった訳です。それに比べればマシといえるのかも知れませんが、対面販売の本質的な課題が露呈したといえます。
松屋のこだわりと、これから
廣渡 まさに、予想だにしなかった事態ですが、今後はどのような舵取りをされるのでしょうか?
秋田 これまで以上にインターネットと向き合っていく必要はあるのですが、百貨店の強みは「対面での絆づくり」にあると、改めて感じるようになりました。ネットでの買い物ももちろん楽しいと思います。ただ、私たちは接客を通じて空気感も楽しんでいただきたい。そのための環境をもっともっと磨き上げていきたいと考えています。
廣渡 同じ買い物でも、ネットとリアルは全く異なる体験なのかも知れませんね。消費者のほうも、リアルでの活動が制限される経験を経て、それぞれの良さをうまく使い分けはじめているような印象を受けます。
秋田 ビジネスの世界でも、リモートの物足りなさを実感し始めているのではないでしょうか。
廣渡 そう思います。いろいろな業種のお客様からお話を伺うのですが、リモートや在宅の合理性は感じているし、後戻りする必要はない。ただ、ある一定の部分については、対面やリアルにこだわる必要性も感じていらっしゃるようです。松屋でいうと、空間や接客を通じたリアルな情報を提供できますが、ネットだとまだまだ限界がありますよね。こだわり抜いたビジネスを続けていらっしゃるのが強い。
秋田 その点、「デザインの松屋」は私たちのこだわりの象徴で、新たなデザインをもっともっと打ち出していきたいと考えています。
廣渡 業界再編のなか独自路線を貫いたことが、そうしたこだわりを支えているのかも知れませんね。
秋田 銀座という街は、そのものに魅力が溢れています。この魅力の一部を担える存在になれるよう、研鑽していきたいですね。
廣渡 私たちにとって松屋さんは古くからの大切なお客様ですから、末永くサポートさせていただければと思います。
秋田 特に税務などは、どんどん複雑になってきていますし、情報をアップデートするためにもAGSさんのようなプロフェッショナルのサポートは欠かせません。引き続きよろしくお願いします。
廣渡 こちらこそ今後ともよろしくお願いします。本日はどうも、ありがとうございました。
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株式会社松屋 代表取締役社長執行役員
秋田 正紀
あきたまさき
1958年12月兵庫県生まれ。83年東京大学経済学部卒業後、阪急電鉄入社(現阪急阪神ホールディングス)。91年松屋入社。99年取締役、2001年常務、05年専務、同年副社長を経て、07年より社長を務める。
経済同友会 副代表幹事 -
インタビュアー
株式会社AGSコンサルティング 代表取締役社長
廣渡 嘉秀
ひろわたりよしひで
1967年、福岡県生まれ。90年に早稲田大学商学部を卒業後、センチュリー監査法人(現 新日本監査法人)入所。国際部(ピートマーウィック)に所属し、主に上場会社や外資系企業の監査業務に携わる。 94年、公認会計士登録するとともにAGSコンサルティングに入社。2008年より社長就任。09年のAGS税理士法人設立に伴い同法人代表社員も兼務し、現在に至る。