1940年代-60年代
創業者の生い立ちから紐解くAGSのルーツ
“数字”の手筋に恵まれ、 中学時代から珠算塾を経営。才を発揮する
会計士事務所を開設したのは27歳の時。自宅に看板を掲げてのスタートだった。以来41年、虷澤力(かんざわ・ちから)が、会計プロフェッションとして関与してきたクライアント数は、優に1000以上。会計・税務だけにとどまらず、顧客内部に踏み込んだ経営支援を多角的に担う〝名うての実務家として、一本道を歩んできた。日本経済を支える中堅・中小企業の経営に、「論」ではなく「実質的」に役立つこと――それが信念であり、最大の喜びでもある。140名超のスタッフを擁するAGSコンサルティングの会長職に就く今も、そこに変節はない。「経営者の相談相手になれるオヤジでいること」。本業はここにあると、虷澤は、その気さくな人柄をのぞかせる。
親類縁者に限られるほど珍しい虷澤という姓は、もともと富山のものなんですが、私は福島県の会津で生まれ育ちました。先祖は屯田兵だったらしく、開拓で北海道に渡り、呉服商を営んでいたと聞いています。昭和恐慌で潰れてしまいましたが、わりに大きな規模でやっていたそうです。その後、軍の関係でパンの製造業に就いていた親父が、会津に転勤になったことで、一族が移り住んだというわけです。私が生まれた頃、実家はすでにパン工場を経営していましたから、ずっと商売人の家系ですね。
どこかにその素養があったのか、私が小学生の時から夢中になったのはそろばん。従兄弟に誘われて習い始めたのですが、教えてくれた先生が銀行員でね。単身赴任していたから仕事が終わるとヒマだったんでしょう(笑)、銀行の寮に子供たちを集めて、趣味で教えていたんです。とはいえ、これがすごいスパルタ教育で、習い事というよりは毎日特訓ですよ。野球とかサッカーを猛練習するのと同じ感覚。厳しかったけれど、どんどんうまくなるから面白かった。塾生チームで珠算競技大会に出れば、かなりいい成績を挙げていたし、なかでも、私は暗算が得意だったから県大会で優勝も。そのうち名がとおるようになって、商業高校の珠算部から「一緒にやらないか」と誘われましてね、小学生ながら高校生と他流試合ですよ。あの頃のほうが、誉れ高かったかもしれません(笑)。
1943年、福島県会津若松市で誕生。きょうだいは、兄1人、妹2人
県立会津高校に進学。京都へ修学旅行に出かけた際の1枚
会津高校の生徒会では、得意のそろばんを生かして会計を務めた。左は、生徒会長の目黒征爾氏。後に、日本郵船常務取締役となる
驚くことに虷澤は、その得意の珠算力を生かし、中学1年生の時に従兄弟と共同して珠算塾を開いている。ちゃんと看板も掲げた。遡れば、これが起業の第一歩。中学、高校時代を通じての6年間、多い時期は80名ほどの生徒を抱えていたというから、立派な〝経営者である。始めた背景には、輪禍で父親を失ったという事情がある。子供ながらにも、家計を少しでも助けたいという思いがあったそうだ。
6年生になる春、親父が交通事故で亡くなってしまって、パン工場は親父の兄弟に譲るかたちになったんですよ。お袋も工場を手伝っていましたが、それまでと同じ暮らしというわけにはいかない。で、自分の学費や家計の足しになればと考えて、塾を始めたのです。でも、そんな悲壮感強い話じゃなくて、従兄弟と二人して「やってみるか」というノリだったんですけどね。
平日は、学校から帰るとそのまま、生徒にそろばんを教えるという毎日。初級・中級・上級と、きちんとクラス分けもしてね。うちの塾、成績がよかったんですよ。生徒もよく頑張っていたし、県大会や東北大会にも毎年連れていったものです。生徒数が多かったから、今にして思えば、けっこういい所得になっていました。もっとも当時は、子供ですから、税金のことなどまったく知らず……ま、それはもう時効ということで(笑)。
その後、県立会津高校に進学してからも、私は相変わらず珠算塾を続け、一方、生徒会では「会計」を務めていましたから、ずっと数字と縁深い生活を送っていたことになります。会計士になった遠因はそのへんにあったんでしょうし、手前勝手にいえば、ベンチャー精神もあったのかなと(笑)。ちなみに、塾の経営は高校を卒業するまでで、あとは兄貴と妹に委ねました。得意なことを生かしながら自分で稼ぐという経験をし、いい友だちにも恵まれて十分に遊ぶこともできた。文字どおり「青い春」を懸命に、楽しく生きた、といったところでしょうか。
1960年代-2000年代
大学時代の経験と出会いがAGSを生み、成長させた
大学3年の時に、第二次試験に合格。そして、事務所開設へ
会津高校を卒業した虷澤は、東京を目指した。進学先は、特別奨学生として合格した中央大学。この時、会計士という職業が頭にあったわけではないが、数字に馴染みのある虷澤にとって、商学部は自然な選択であった。そして、入学して間もなく、会計士試験を目指すサークルに入会したことで、行く道は明確に定まったのである。
大学に入学したのは、東京オリンピックが開催された前年。ちょうど建設ラッシュの時期で、地方から見れば、東京は華やかで眩しかった。「青雲の志を抱いて故郷を出る」じゃないけど、そんな希望のもと、東京に出たがる人が多かった時代ですよ。私は奨学生になれたし、叔父の家に居候させてもらえるというから、幸いにも上京してアルバイトをしなくても生活することができたのです。
会計士を意識したのは、入学してすぐです。高い合格率を誇る中央大学に入ったんですからね、「よーし。やってみよう」と。学内には会計士を狙うサークルが複数あるのですが、私は、もっともレベルの高い「会計学研究会」を〝受験〞したんです。15人ぐらいしか取らない枠なのに、応募者数はなんと1000人以上。運よく狭き門を突破できましたが、驚きましたよ。私の大学生活は、完全にこの「会研」を中心に回っていました。同じ志を持つ仲間を得て、勉強に励み、語り合い、酒を飲み、マージャンもやり。まさに同じ釜の飯を食った仲で、今でも付き合いが続いています。しかも、当時の仲間たちは立派になって、それなりの著名人に。財産ですね。
授業は普通の大学と同じだから、受験勉強は当然、サークルでやるわけです。先に合格した先輩で、例えば、ともに中央大学の名誉教授となった渡部裕亘さん、木下徳明さんなどに教えてもらえて、質の高い勉強ができましたから。それに仲間がいて楽しいでしょ、通常の大学の授業なんて、ろくに出なかった(笑)。加えて、2年生の後半からは、大学の付属機関が運営する「経理研究所」にも入っていたので、受験勉強をするには十分な環境でした。おかげで、大学3年の時に、第二次試験に合格することができました。今とは違って、合格率は3%前後という難関だっただけにうれしかったし、よく一発で受かったものだと思いますよ。
井上達雄氏、太田哲三氏、黒沢清氏といった、いわゆる業界の大御所が教鞭を執っていた時代で、虷澤は大学の後半、井上ゼミに籍を置いていた。こちらも高い倍率で、そうは簡単に入れないゼミだったそうだが、虷澤はゼミの幹事を務め、恩師である井上氏の弟子として様々な実務にも触れた。それが、早い独り立ちを導くことになったのである。
井上先生の送り迎えとかも含め、弟子としていろんなことを手伝わせていただきました。二次試験に受かってからは、「今度はみんなに教える番」ということで、サークルや経理研究所では、私自身が講義をやったり、試験問題の添削なんかもやっていたんです。で、重宝に思ってくださったのか、「このまま大学に残りなさい」と、大学院に行かされたというわけです(笑)。お手伝いする仕事によっては給料ももらえたし、私は素直に「はい」と。
当時は三次試験があったから、その受験に向けての実務従事も、井上先生の会計士事務所でさせてもらいました。「先輩について監査業務に行く日」「答案の添削をする日」「講義をする日」、そして「遊ぶ日」。けっこう忙しい毎日でしたが、自由に伸び伸びと過ごしていたという感覚です。そして、無事に会計士登録をしたのが1970年。先輩やお世話になった方に言われたのは、「虷澤君は自分で道を切り拓いていくタイプだと思うから、事務所を開いたら?」。大学院に進んだ時もそうでしたけど、「俺の人生、勝手に決めないでよ」と内心では思いつつも(笑)、期待を寄せてもらえるのはうれしいもの。また、素直に従ったというわけです。
中央大学商学部に進学。授業そっちのけで、「会計学研究会」と「経理研究所」の活動に明け暮れた。仲間たちとピクニックへ(左から2人目)
25歳で、結婚。妻のサツ子さんは、簿記学校で講師をしていた時の生徒だったそう。新婚旅行で出かけた金沢・兼六園で
“数字だけ”ではない仕事姿勢が高い評価に。事業は順当に成長
「虷澤公認会計士事務所」。まずは、当時住んでいた阿佐ヶ谷の自宅に看板を揚げた。先輩や知人からポツポツ仕事を紹介してもらいながら、丁寧にこなしていく――自宅を出て、四谷に事務所を構えるまでに、そう時間はかからなかった。妹を事務員とし、ほかに所員2名を雇用。これが最初の陣容である。単なる経理補助にとどまらず、顧客と一体となって経営管理全般に臨むという姿勢は、当初から、虷澤が守り大切にしてきたことだ。
最初のうちは仕事が少ないから、けっこう時間あるでしょ。それに、私は現場や人が好きなので、お客さんの会社にしょっちゅう出入りしていました。すると、会社や事業の〝中身〞がよくわかってくるんです。その理解のうえに、例えば作成した決算報告書を、私が代行して取引銀行に説明をする。丁寧にね。あるいは、資金繰り表を手に、融資の必要性を説くとか。意図してやったことじゃないけれど、人の役に立ちたいという気持ちが強かったから、自然にお客さんと金融機関の橋渡し役になっていたという感じです。
中小や零細企業は、営業とか製造とか、売り上げに直接貢献する部門に人材を集中させているから、管理部門にまで手が回らないのが実情です。でも、当時のいわゆる町の会計士事務所というのは、決算書や申告書を作成したら、それでおしまい。数字の整理だけというのが常でした。だから、私のような存在は、お客さんにとても喜んでもらえたし、銀行側からは安心してもらえた。ここが、私の原点ですね。今日に至るまでお付き合いが続いているクライアント、そして、長い年月にわたって顧客や仕事を紹介してくれた金融機関。そこに培ってきた信頼関係こそが、うちの基層であり、紛れもない財産だと思っています。
76年、虷澤は武蔵監査法人(現新日本有限責任監査法人)に社員として加入。そして88年に、AGSコンサルティング(以下AGS)を設立した。その都度、監査業務やM&A事業、IPO支援事業など業容を広げてきたが、それは事業拡大が先にありきではなく、クライアントの要望に応えるかたちでの〝器づくり〞だったといえる。いわば、先義後利。顧客企業の経営課題にともに悩み、施策をつくり出し、成長支援を続けるなか、並走する虷澤もまた、成長を遂げてきたのである。
事務所を開設した当初から、それこそ30年、40年というお付き合いが続いているクライアントもたくさんあります。なかでも、電子機器部品メーカーのM社とは、深く長いご縁でね。70年代半ばからご一緒していますが、先方から「監査をやらないか」と話をいただいたことが、私が監査法人に入ったきっかけでした。ここから、監査業務は監査法人に移し、会計業務は自分の事務所で扱うという二本柱のスタイルになったのです。監査法人ができた当初は、そういうやり方をする先生がけっこういたんですよ。
以降、M社をずっと見続けてきました。海外への進出、積極的に重ねてきたM&A……大変な時期も、飛躍の時期も、そのすべての過程を。現場好きの私は、海外も含めて全部の子会社や工場にも出向いています。会計業務において様々な勉強をさせてもらったのはもちろん、今につながっているM&AやIPO支援の仕事を覚えたのは、M社のおかげです。M社の中興の祖といわれた稀代の名社長とも、ずいぶん議論を交わしたものです。その社長は強烈な個性を持つ人だったので、「違うでしょう」とはっきりモノを言えたのは、私ぐらいじゃないですか。今では監査業務も終わって、私が表に立つことはなくなりましたが、それでも、M社の役員たちからは、今もいろんな相談を受けています。だって、私がM社と仕事を始めた頃に入社してきた人材ばかりですから。みんな、すっかり偉くなっちゃったけど(笑)。
監査業務は監査法人で、会計・税務を中心とする中小企業の支援業務はAGSで――というスタイルは、私が新日本の監事を退任した2005年まで。終盤の仕事比率は、ほぼ半々になっていました。新日本では、けっこう新規のIPOを担当していたので、それなりに貢献していたのですが、アメリカのエンロン事件を機に、監査業務の独立性が厳しく求められるようになった。そんな環境変化のなか、自分自身を今一度見つめ直した時に、私はやっぱり多角的な視点に立って中小企業の経営を支援し続けたい……。そう思って、30年近くお世話になった新日本をあとにし、AGS一本に専念することにしたのです。
1970年、虷澤公認会計事務所を開設。創業間もない頃から社員旅行を実施し、家族を伴って出かけていた(写真後列中央)
電子機器部品メーカーM社の”中興の祖”と呼ばれた経営者に気に入られ、同社を長く担当。シンガポール支社へ出かけた際の一枚
米国の顧客企業視察時。KPMGの面々と。奥はポール与那嶺氏。右から2人目が、当時のKPMGジャパンプラクティス代表のロデオ氏
2000年代-
成熟するだけでなく、 さらなる成長を求めてAGSは歩んでいく
日本一、質の高いアカウンティング・ファームに向けて
現在、AGSの事業領域は6つ。同社がマネジメント・サービスと呼ぶ会計・税務業務を中核に、M&A、IPO支援、企業再生支援、国際業務、事業承継といった事業が有機的に結びついており、顧客企業に対して、あらゆる面から経営サポートできる体制が整っている。いわば「中小企業のCFO代行」だ。企業内部の現場にまで入り、各ステージに合わせたきめ細やかなコンサルティングを行う姿勢。陣容が大きくなった今も、虷澤が貫いてきた信念はしっかり受け継がれている。
この厳しい経営環境下ですから、最近は、事業再生の案件が急増しています。これまでの信頼関係のもとに、メガバンクから紹介や依頼を受けることも多いですね。財務状況が悪化するなか、債務をリスケする必要が出てくると、企業は当然、銀行に対してしっかりした事業再建案を提出しなければならない。そのためのお手伝いです。それには複眼的なデューデリジェンスが不可欠で、我々はまず、事業を深く知る、理解するところから始め、ともに再生計画を策定する。そして「計画どおりできているか」のモニタリングも行い、スキームが実現するまできっちり支援を続けています。
M&Aも多くなってきましたね。年間の関与数でいえば120件くらい。中小企業のM&Aに限っていえば、大手銀行や証券会社と肩を並べる数字だと思いますよ。まぁ実績はともかく、我々が特に大切にしているのはアフターです。M&A後の会計制度の統一から月次連結の体制整備、さらに連結決算のサポートなど、内部から構築や改善に取り組んでいく。
どの事業もそうですが、こういった仕事スタンスをひと言でいうならば、企業のCFO代行なんですよ。根底にあるのは、中小企業をいかにお手伝いしていくか。その一点です。日本経済を支えているのは、中小企業なんですから。その会社数にしても、働いている人の数にしても。ここに頑張ってもらわないと、本当に日本は危ない。私たちのお手伝いが、ひいては経済の活力につながると、そう信じています。
2005年、長く勤めてきた新日本監査法人を退職。メンバーたちと記念写真。
大切なファミリーと。毎年12月には、ホテルオークラに家族全員が集まり、クリスマス会を開く
2008年、代表取締役会長に。現・代表取締役社長・廣渡嘉秀氏との両輪経営が、同社の堅実な成長を支えている
標榜するのは「日本一のアカウンティング・ファーム」。その定義は、独立系として、もっとも良質なコンサルティングサービスを提供する専門集団になること。「次の世代が、そうしてくれるでしょう」と虷澤は穏やかな顔を見せる。実際、現場は代表取締役社長の廣渡嘉秀氏、取締役の虷澤篤志氏を中心としたボードメンバーが取り仕切り、確実に次のステップへと歩を進めている。しかし、会長となった今も、虷澤の多忙な日々は変わらない。表立って直接的な実務に携わることは減っても、縦横に広がるクライアントからの相談事が絶えないからだ。
経営者の相談相手。それが、今の私の本業だと思っています。確かに、会計士っぽくないですよね。時々言われるんですよ。「ところで、先生は会計士でしたよね」って。「もちろん。私も一応、公認会計士ですよ」と(笑)。
私がいつも若いスタッフに伝えているのは、現場を楽しんでほしいということ。自分が役に立ったという確かな手応え、「あの会社の基盤は俺がつくった。支えたんだ」くらいの感覚です。医者でいえば、「この人の病気は俺が治したんだ」ということになるのでしょうが、それが、専門家としての能力であり、喜びじゃないですか。幸い、うちのスタッフは、そのあたりは自由にやっていますよ。新規顧客の開拓、国際業務への取り組み、事業継承など、新たなフィールドでね。そんな彼らが、いい意味で独立した職業会計人として育ってきているのは、とても喜ばしいことです。若い公認会計士たちには、仕事の本質的な喜びを知ってほしいし、その道案内をするのが、これからの私の役目だと思っています。
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1943年9月16日 福島県会津若松市生まれ 1966年9月 公認会計士第二次試験合格 1967年3月 中央大学商学部卒業 1969年3月 中央大学大学院修士課程修了 1970年10月 公認会計士登録
虷澤公認会計士事務所を開設1976年5月 武蔵監査法人
(現新日本有限責任監査法人)に社員として加入1981年7月 武蔵監査法人の代表社員に就任 1988年2月 株式会社AGSコンサルティングを設立、代表取締役に就任
センチュリー監査法人(現新日本有限責任監査法人)の理事に就任2004年7月 新日本監査法人監事に就任 2005年6月 新日本監査法人監事を退任 2008年4月 株式会社AGSコンサルティングの代表取締役会長に就任 2008年12月 AGS税理士法人を開設、統括代表社員に就任 家族構成=妻、娘2人、息子1人