• 対談

激動の時代を共に歩み続けた、アデランスとAGSの40年

株式会社アデランス
代表取締役社長 津村 佳宏 様

「世界中の髪に悩む方を笑顔にしたい」と、1968年の創業以来トータルヘアソリューションのリーディングカンパニーとして、毛髪・美容・健康のウェルネス事業を世界20の国と地域に69社のネットワークでグローバル展開するアデランス。
代表取締役社長の津村佳宏氏に、AGSコンサルティングの廣渡嘉秀が話を伺った。

アデランスとAGSの、家族のような関係

廣渡 本日はよろしくお願いします。
アデランスは本当に古くからお付き合いさせていただいていて、AGS名誉顧問の虷澤にとっても思い入れの深いお客様ということもあり、満を持して対談の機会をいただいた次第です。

津村 虷澤先生にはいつも大変お世話になっています。
もともと、創業メンバーのひとりである平川のお知り合いだったと聞いています。「優秀な会計士がいる」と、現会長の根本に紹介したようですね。

廣渡 私がAGSに入社したのが1994年でして、ちょうど新人のころに平川さんの別会社を担当していたこともあって、よく存じ上げています。御社とのお付き合い自体は上場前からと伺いました。

津村 根本と親密になったきっかけは、やはり現在のカネカからフォンテーヌを買収した際、手腕を発揮していただいたことだと聞いています。
当時カネカは人工毛髪を製造しており、それをウィッグにして百貨店で販売するというビジネスモデルを展開していたのですが、製造に特化していきたいという方針転換もあって、アデランスにお譲りいただくことになりました。

廣渡 買収は1985年でしたね。

津村 私も当時のことをよく覚えています。そう考えると40年近くお付き合いさせていただいていることになりますね。虷澤先生には特別顧問にも就任いただきました。

廣渡 アデランスへの関与は、虷澤にとってライフワークのようなものなんですよ(笑)。

津村 仕事ももちろんですが、根本とはプライベートでも家族ぐるみでお付き合いされていますね。奥様同伴で舞台に行ったり、旅行されたり(笑)。

廣渡 根本会長との出会いは、虷澤にとって、その後の仕事観を決定づけるものだったと思います。会計事務所でありながら、お客様と家族のような関係を築いていく。40年経った今でも、虷澤が「会社としてではなく、人と人との関わりを大切にせよ」という時、脳裏には根本会長が浮かんでいるのでしょう。

津村 今でもグループ会議をはじめ、アデランスの重要な会議にはご出席くださいますし、当社の状況を理解したうえでフォローいただけますので、とても助かっています(笑)。

廣渡 恐れ入ります・・・なんだか冷汗が出てきますね(笑)。

アデランスVSアクティビストファンド

津村 虷澤先生にまつわる話で一番鮮明なのは、やはり米国アクティビスト系ファンドとの一件ですね。
アデランスにとっては2003年2月期が最も好調な年で、売上が771億円、営業利益が120億円近く計上することができたんですが、その頃に外資系ファンドが入ってくるようになった。株価が割安だったこともあり、株式の30%近くを保有されることになります。

廣渡 2000年代は、「ハゲタカ」と呼ばれたアクティビストファンドが猛威を振るった時期でもありました。

津村 当時、AGA(男性型脱毛症)対策としてフィナステリドやミノキシジルを含む発毛・育毛剤が発売されるなど、ウィッグのみならずヘアケア市場全体が活性化しましたが、一方では競合も増えたんです。成長が横ばいになり、平均3,000円ほどだった株価も1,000円近くまで下がっていった。さらに追い打ちをかけるようにリーマンショックを迎えます。

廣渡 その後、そのファンドは日本市場から撤退するものの、アデランスの株は手放さなかった。

津村 大株主でしたから、なかなか市場では処分できなかったんですね。2009年の株主総会で、アデランスはプロキシーファイトに敗れ、錚々たるプロ経営者たちが取締役に選任されることになりました。

廣渡 ところが、ファンド主導の経営はなかなかうまくいかない。

津村 アデランスの商材は特殊性が高いため、マーケティングの手法が、たとえば食品メーカーのそれとは異なるんです。当時私は執行役員として間近で見ていましたが、意見が聞き入れられることはありませんでした。特に、サプライチェーンのなかで重要だった新潟の生産基地をクローズしてしまった時は本当にショックでしたね。

廣渡 あの中条(新潟県胎内市)の。

津村 そう、中条の。2009年2月期は売上700億円、下がってはいたものの営業利益が25億円ほど出ていたんですが、ファンド主導の経営を進めた結果、そこから2期にわたり50億円以上の営業損失を出してしまいます。
そこで、虷澤先生にも渡米いただき、根本を社長に復帰させるようファンドの代表者に交渉してくれた。

廣渡 私も虷澤からよく聞いています。
その後、プロ経営者たちが退陣することになりますね。

津村 やはり郷愁でしょうか。求心力たる根本が復帰してから社員のモチベーションが再び高まり、売上、利益とも回復していきました。2014年12月、ファンドがアデランスの株式を手放し、撤退することになります。

MBOから「一時入院」へ

廣渡 その後、経営再建のため2017年3月に非上場化されました。

津村 根本が経営体制を整備していくなかで、私も2015年9月に代表取締役専務を拝命しました。
そこで海外の工場などをはじめ、社内の状況をすべてチェックしたのですが、失ったリソースが大きすぎた。売上こそある程度戻ってきていたものの、このままではなかなか株価は回復せず、また配当も難しいため株主のみなさまにご迷惑がかかると判断したんです。虷澤先生と相談し、足元を固めるべく「一度入院しよう」とマネジメントバイアウト(MBO)に踏み切りました。

廣渡 当時ものすごく注目されましたね。アデランスの会社としての知名度やアクティビストファンドとの一件もさることながら、経営陣が過半数を保有するMBOということで、私たちの業界でも大変画期的な事案でした。

津村 私たちの事情をよく理解した日本の投資ファンドであるインテグラル社が、ありがたいことにマイノリティ投資を受け入れてくれました。そこからの1年間、みんな本当にがんばってくれて、2019年2月期には初めて売上800億円の大台を超えることができた。しかもこれが、創業50周年という記念すべき年だったんです。

廣渡 そこからは堅調に業績を伸ばされていったと記憶していますが、2020年、コロナ禍が大きく立ちはだかることになりました。

津村 非上場化はあくまで「一時入院」ですから、2019年には再上場に向けた特命プロジェクトを立ち上げ、課題を解決していった。その矢先でしたね。最も深刻だったのは主に百貨店で展開しているフォンテーヌ事業で、毎月約3万人ご来店いただいていたお客様が、1回目の緊急事態宣言の際は5千人を切ってしまった。アデランスのビジネスは対面接客が基本ですから。

廣渡 百貨店への休業要請もありましたからね。

津村 国内の業績でいうと、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が断続的に続いた2021年度の方が、むしろ深刻でした。ウクライナ問題などもありますし、再上場についてはもちろん地合いを見ながらとなりますが、AGSには引き続きご支援いただきたいですね。

「落ちこぼれ」から始まった、津村社長のルーツ

廣渡 まさに激動の時代に舵取りを任されている津村社長ですが、今度はご自身の歩みについてもお話を伺えればと思います。

津村 生まれは広島県です。学生時代は空手をやっていて、どちらかというとやんちゃなタイプでしたね(笑)。
手に職をつけたいと思い、好きだった料理の道に進むことも考えたんですが、ちょうどアデランスがヘアデザイナーを募集していた。働きながら理美容免許が取れるという制度に魅力を感じ、入社することにしました。

廣渡 技術者としてスタートされたんですね。

津村 ちょうどアデランスが大きく成長していた時期でもあり、同期は100名、技術職でいうと80名ほどいたでしょうか。実は私、落ちこぼれだったんです。研修でセンスがないと言われて(笑)。

廣渡 それは意外ですね。

津村 他の同期たちは研修後すぐに現場に配属されていったんですが、私は5人いた居残り組のひとりでした。研修所の課長からは、「もし一ヶ月補習して検定をクリアできなかったら技術職としての配属は難しいぞ」と(笑)。

廣渡 いきなり崖っぷちだ(笑)。

津村 養護施設や老人ホームなどでカットやパーマをボランティアとしてやらせてもらったり、道行く人に声をかけてモデルになってもらったりもしましたね(笑)。ただ、そうやって回数をこなしていくうちに上手くなっていきました。

廣渡 最終的には合格されたんですよね?

津村 見事に5人とも無事に現場に配属されることができました(笑)。その後は営業が得意だったこともあって順調にキャリアを重ね、21歳の時に北海道の北見支店で支店長代理を務めるまでになった。営業車が雪道で脱輪してしまって何時間も立ち往生したりと、極寒のなか大変な2年間ではありましたが。

廣渡 北見といえば網走も遠くない雪国ですよね。広島の温暖な環境と比べると、相当厳しかったでしょう。

津村 負けず嫌いな性分でしたから、とにかく結果を出してやろうとがんばりました。商品は自社工場でこだわったものを生み出していましたから、私個人は「技術と知識、そして接客」にこだわった。これが成功体験につながったんだと思います。入社した頃は苦手だった技術も徹底的に磨き、社内の技術競技大会で優勝するまでになりました。ちなみに、アデランスの経営理念は私が中心になってまとめたんですが、当時実体験のなかで学び、培ったこの考え方がルーツとなっています。

転機となった、モノづくり経験

廣渡 落ちこぼれから技術競技大会で優勝をするまでになった(笑)。
まさに「叩き上げ」と呼ぶにふさわしいキャリアを歩まれていますが、ご自身の転機はどのあたりにあるとお考えですか?

津村 いろいろ経験させてもらいましたが、ひとつ挙げるとすると、本社で育毛事業の立て直しに携わったことでしょうか。遅れていた育毛コースを半年でリニューアルしたんですが、これが大ヒットして、これだけで100億円近く売り上げるまでになった。

廣渡 それはすごい。どうやって成功させたんですか?

津村 私なりに分析してみたところ、育毛コースに関する知識や技術が現場に浸透していなかった。そこで、「一番影響力のある営業部長たちから集中教育すべきだ」と主張したんです。私自身は一課長に過ぎませんでしたが(笑)。

廣渡 全員上席の方ですよね。

津村 部長たちを集めて、技術から学んでもらいました。最初は文句を言っていましたが(笑)、もともと技術者ですから、シャンプーやマッサージなどを体験していくうちにこれはいいなと。

廣渡 営業部長たちが腹落ちしてくれたことによって、爆発的に売れるようになったわけですね。

津村 このタイミングでモノづくりを経験できたことは、大きな糧となりました。一方、現場で実務を重ねていくなかで、学ぶことの重要性を痛感しはじめました。のちに部長時代に早稲田大学で学ぶようになった、最初のきっかけといえるかも知れません。

廣渡 その後、営業部長などを経て、2009年に執行役員に昇進されました。

津村 2009年の株主総会にて、旧経営体制から新経営体制に移行し、私も執行役員に選任されました。会社の混乱期の中で執行役員に選ばれたことには強い戸惑いもあり、さらに新体制の方針には少なからず疑問もあったので、大変苦労しました。

企業にとって一番大切なもの

廣渡 津村社長のご経歴を伺っていると、やはり、「居残り組の5人」から始まる、いろいろな逆境や試練を乗り越えてきた力強さを感じますね。それが今のアデランスの経営理念にもつながっている。

津村 根本が復帰したタイミングで、落ち込んでしまった社員の帰属意識を再び高めていくべく、アデランスの存在意義を見直そうということになった。創業時に根本が唱えた「世の中の、毛髪で悩む方々を笑顔にしよう」という原点に立ち返ったんですね。アデランスが50年以上存続できたのは、そうした悩みを持った人がいて、その悩みに応えることができたということに他ならない。あと、もうひとつきっかけになったのが、BERC(一般社団法人経営倫理実践研究センター)という団体と出会い、CSR(企業の社会的責任)について学び始めたことです。

廣渡 そういえば、アデランスはCSR活動に熱心に取り組まれている印象があります。

津村 おっしゃるとおりです。BERCを通じてさまざまな企業と事例研究を続けるなかで、経営理念とビジョンが企業の根幹にあるということを改めて認識した。私たちの経営理念は、そうした社会との関わりを見つめ直しながら作りあげたものです。

廣渡 奇しくも、株主至上主義といわれたアクティビストファンドとの一件が少なからず影響しているのかも知れませんね。

津村 BERCで学んだことのひとつに、「企業にとって一番大切なのは社員とその家族であり、二番目は取引先とその家族、三番目がお客様、四番目は地域社会、最後が株主である」というものがあります。社員と取引先ががんばれる環境をつくることで、良い商品を生み出すことができる。すると、お客様が増えていくので売上が伸びていく。そうなると企業としても地域活動などに取り組む余力が生まれるんですね。最終的には配当が増え、株価も上がっていくので、株主にも還元できるということになります。まさに経営の神髄だな、と。

サステナビリティと国境なき組織観

廣渡 津村社長がおっしゃると、説得力が違いますね(笑)。
アデランスの今後については、どのようにお考えでしょうか?

津村 コア事業となる毛髪事業はもちろんのこと、美容と健康に関する分野を次の50年で徹底的に追求していきます。これをトップダウンではなく、社員それぞれが考え、行動してもらう。企業が大きくなってくると、ボトムアップの提案は否定されがちになり、結果として従業員のモチベーションを損なってしまいます。

廣渡 ありがちですね。

津村 もちろん大きな投資になると経営判断が必要になりますが、アデランスではなるべく権限を委譲する。「言われたこと」と「言ったこと」は、伴う責任の重さが根本的に違ってきますから、人に任せることで、社員の成長を促していく。いわゆる「サーバントリーダーシップ」ですね。実はこのやり方、根本が最も得意とするところなんですよ。

廣渡 たしかに、根本会長はそういうキャラクターですね。優しく「やってみれば」と。

津村 あとはダイバーシティですね。「アデランスに国境はない」と表現しています。グループには現在約2,400人の日本人がいますが、残りの約4,000人は外国人なんです。年齢、人種、性別、セクシュアリティ、障害の有無などは一切関係なく、がんばる人を応援する。出る杭も伸ばしていきたい(笑)。

廣渡 昨今、「企業のサステナビリティ」が叫ばれますが、アデランスは先駆的ですね。

津村 アデランスの特徴として、海外企業をM&Aしても、原則として日本からは誰も派遣しないんです。方針は示すけれども現場の創意工夫に任せる。たいていの場合はこれでうまくいきます。もちろん、苦戦している時には手伝いに行ったりもしますが。

廣渡 素晴らしいカルチャーだと思います。
最後に、AGSについて一言いただけますでしょうか。

津村 私たちアデランスにとって、AGSは身内といいますか、ある意味グループ会社のような関係ですね。会計や税務、M&Aなど、経営するうえでは本業以外にもいろいろな課題が出てきます。ファンドの件も、アクティビストファンドがクローズアップされがちですが、虷澤先生には別の大株主である大手ファンドとの交渉にもご尽力いただきました。一週間がかりでしたが、あれが失敗していればMBOできませんでしたから。

廣渡 あの時代はドラマのような世界でしたが、私たちもそのドラマに少しだけ関わらせていただいたのだと思うと、コンサル冥利に尽きますね。

津村 最近でいうと、苦しんでいたハイネットというグループ会社についても、AGSが毎月チェックしてくれ、いろいろとアドバイスをいただいた。おかげさまで再建への見通しが立つようになりました。今となっては、AGSには絶対の信頼を寄せていますね。

廣渡 私たちにとっても、アデランスは単なるお客様という枠を超えて、理想のパートナーだと感じています。
本日はどうも、ありがとうございました。

※この記事は2022年5月13日の取材を基に作成したものです。
※対談時はマスクの着用など、感染防止策を講じたうえで実施しています。

【アデランスグループのご紹介】
1968年創業。トータルヘアソリューション(総合毛髪関連)事業のリーディングカンパニーとして、男性向け「ADERANS」、女性向け「レディスアデランス」、「FONTAINE」、毛髪移植(ヘアトランスプラント)「BOSLEY」、男性・女性向けヘアシステム「HAIRCLUB」の5つのブランドを核に、ウィッグの製造販売、育毛・増毛サービス、ヘアトランスプラント事業などをグローバルに展開。髪の専門家として髪の悩みを抱えているお客様をサポートしてきた経験やノウハウを、スキンケア・スカルプケア・ボディケア・ヘルスケアなど本質的なトータルビューティのサポートに活かす為、先端美容をテーマにした「ビューステージ」ブランドを立ち上げ、次の100年に向けコア事業の毛髪事業に加え、美容事業、ヘルスケア事業、医療事業をドメインとし、世界的なビューティ&ウェルネスカンパニーを目指している。

  • 津村 佳宏

    津村 佳宏

    つむらよしひろ

    株式会社アデランス 代表取締役社長

    1963年、広島県生まれ、早稲田大学人間科学部卒。82年株式会社アデランスに入社し、東北営業部長、フォンテーヌ株式会社取締役などを経て、2017年に代表取締役社長に就任、現在に至る。

  • 廣渡 嘉秀
    interviewer

    廣渡 嘉秀

    ひろわたりよしひで

    株式会社AGSコンサルティング 代表取締役社長

    1967年、福岡県生まれ。90年に早稲田大学商学部を卒業後、センチュリー監査法人(現 新日本監査法人)入所。国際部(KPMG)に所属し、主に上場会社や外資系企業の監査業務に携わる。 94年、公認会計士登録するとともにAGSコンサルティングに入社。2008年より社長就任。同年のAGS税理士法人設立に伴い同法人代表社員も兼務し、現在に至る。