• 対談

世界最高の「チーム」が語る、変わらないための変革とは

平井 伯昌 ✕ 北島 康介 ✕ 廣渡 嘉秀

北島康介さんご自身も代表を務める「株式会社IMPRINT」と平井先生が、それぞれ私たちAGSのお客様ということで実現した対談記事です。北島康介氏×平井伯昌氏×AGSコンサルティングのスペシャル対談をご覧ください。

結果を出すためには「苦しくて当たり前」

廣渡 今日はありがとうございます。いつもはクライアントの経営者にインタビューすることが多いんですが、今回は北島さんご自身も代表を務める株式会社IMPRINTと、平井先生がそれぞれ私たちAGSのお客様ということで、このような対談が実現してしまいました(笑)。平井先生の著書を読んでいて、ものすごく怖くて厳しい人をイメージしていたんですが、実際のところはいかがですか。

北島 他のコーチからはあまり指導を受けていないのですが、平井先生の世代はみんな怖いんじゃないですかね。

平井 怖いかなぁ(笑)。

北島 きちんと目標を決めさせ、徹底してそこに向かわせるという、平井先生独特のスタイルがありました。先生との出会いは、5歳から通っていた東京スイミングセンターでした。きちんと教えてもらうようになったのは中学生からですが、はっきりと覚えています。当時は自分が選手になって、平井先生に教わることになるとは想像していませんでした。

廣渡 東京スイミングセンターは名門だと伺っていますが。

平井 クラスはレベル別に10以上あり、厳しいですが育成カリキュラムがしっかりしていました。

北島 みんな平等だった気がします。どの子どもにも、平等にきちんと段階を踏ませていく。

平井 記録をクリアすると上のクラスに進むことになるんですが、遊び半分な雰囲気は全くありませんでした。

北島 どんどん厳しくなっていくことがわかっていたので、上に進むことはうれしい反面、少し怖かったです。

廣渡 その後、選抜されて少数精鋭クラスに入っていったのでしょうか。

北島 他のクラブに比べると人数は多かった気がします。

平井 中学生だけで練習する時もあるし、小学生や高校生、大学生と混ざって練習する時もある。康介は強かったものの、あくまで強い中学生のひとりという位置づけでした。

廣渡 やっぱり、強い選手は他にもいたんですか。

平井 全国大会で優勝する選手は毎年何人も出ていて、それが当たり前でしたが、アトランタオリンピックに代表選手をあまり輩出できなかったんです。それを機にコーチと選手の若返りを図っていくことになった。ちょうどその頃でしたね、康介を担当するようになったのは。

廣渡 伸び始めるタイミングは選手によって異なるんだと思いますが、北島さんが頭角を現すようになったきっかけはありますか。

平井 中学3年生のとき、同学年の中学記録ホルダーを破って優勝した、全中(全国中学校水泳競技大会)かな。

北島 平井先生に教わって結果を出せた最初の夏ということもあって、思い出に残る試合のひとつです。当時は体も大きくなくて、特に200m(平泳ぎ)は苦手意識がありました。

平井 周りも盛り上がってくれたし、強い選手に勝ったことで評価されるようになりました。

北島 直後の国体(国民体育大会)は惨敗でしたが、より水泳に専念していくきっかけとなりましたし、合宿など、いろいろなところに連れて行ってもらえるようになったと肌で感じました。

平井 水泳に懸けるため、東京スイミングセンターの並びにある高校に進学したんです。

北島 ほとんど水泳漬けでしたね。平日は朝練して、学校行って、家に帰らずに練習。土日ももちろん練習。

廣渡 練習は、やはり想像を絶する苦しさなんでしょうね。

北島 そうですね。苦しい練習を好きな選手はいないと思います。でも、きついことをやらないと結果が出ないということは、みんな小さい頃からの経験で体感しているんです。

廣渡 そうなってくると、技術以上にメンタル面の指導が重要になってくる印象ですが、実際はどうだったのでしょうか。

平井 それが、そうでもないんです。

北島 平井先生の教え子は、素直で純粋な選手が多かった印象です。練習が嫌だというのは誰もが思うことですが、それを当たり前のこととして取り組める環境があった。このことが大きいんだと思います。

平井 当時、東京スイミングセンターの育成方針で、有力な選手であっても特別扱いしませんでした。なぜかというと、国内の大会は誰かが優勝しますが、オリンピックは行けるとは限らない。目標が高くなったとしても、みんなと同じ環境で練習できる楽しさを感じてもらうように心掛けていました。

北島 「水泳は結局個人競技」などとよく言われますけど、仲間意識は人一倍強いんです。一日の半分以上を、みんなといっしょになって苦しい練習に費やしている訳ですから。

平井 たとえば康介が高校生でオリンピックに参加した直後も、小学生から大学生までの混成グループで練習していましたからね。仲間と切磋琢磨していた当時の選手たちは、どんなに苦しい時にも踏ん張れる。特に教えなくてもモチベーションは自分の力で維持できるように子どもの頃から鍛えられていますし、いろいろなベースが身についていました。

勝つことの先をどう見るか?若い時にどう育ってきたかが明暗を分ける

廣渡 動機が明確であれば踏ん張ることはできるのかも知れませんが、逆にたとえば、オリンピックまで上り詰めてしまうと、やはり先が見えなくなってしまうものなのでしょうか。

北島 そんなこともなかったです。それが平井先生の独特な指導法で、常に勝つことの先を見せてくれるというか。

平井 強くなったその先を見ることはなかなか難しくて、一度オリンピックに出てしまうと、その次のオリンピックまでなかなか身が入らない選手もいるんです。そんなことを考えていた時、金メダリストのコーチをロシアからお呼びしたことがあった。その時に聞いたお話がすごく印象的で、「成長カーブが緩くなってからがポイント。金メダルを獲った後、いかに成績を維持するかが重要だ。」と。そんなことは日本のコーチから聞いたこともなくて。康介にプロになることを勧めるようになったのは、それからでした。

廣渡 お話を聞けば聞くほど凄いなと思うのは、平井先生が育てたのが北島さんだけではなかったということです。これは特殊な技能なのではないでしょうか。

平井 それは僕が東京スイミングセンターのコーチだったからだと思っています。なるべくマンツーマンにならないように心掛けていましたから。

北島 でも、すごいと思います。種目に関わらず選手を強くしていくことができるのは。

平井 僕からすれば、康介は絶対強くするし、絶対強くなると確信していました。そういう信頼がないと、ほかの選手まで指導できなかったと思います。

北島 選手の立場からすると、それは大きいかも知れません。

平井 たとえば、中村礼子を指導することになったときには「北島に金メダルを獲らせることに集中すべきではないか」という批判もありました。でも僕は逆に、金メダルを獲るはずの康介といっしょに練習すれば、中村もオリンピックにいけるはずだと考えたんです。北島康介を中心とした練習の雰囲気が周りの選手も強くすると。

廣渡 先ほどおっしゃっていた、「みんなで苦しい思いをしている」という雰囲気が士気を高めるということかも知れませんね。

平井 ひとりだと煮詰まってしまう時が必ずあるんです。アテネで金メダルを獲ったあと、もし礼子やほかの選手がいなかったら、成績は維持できなかったかも知れない。康介自身、仲間たちの努力する姿に助けられたこともあるんじゃないかな。

北島 それはあります。たとえば調子が悪くて練習できない時、みんなが平井コーチの指導を受けてがんばっているのを見ると、「早く戻らなきゃ」って。

平井 あとはね、北島は選手として超一流だから、ぼくもコーチとして頑張らなきゃいけないと思っている訳ですよ。康介がいなくなったら終わりって言われないように(笑)。

北島 実際は「コーチは常に、選手よりも一歩先を進んでいなければならない」と、自ら体現されていた。気持ちの良い仲間たちにも恵まれましたし、本当に良い環境だったと思います。

平井 やはり、若い時にどんなふうに育ってきたかは、選手のその後にとって大きな影響を与えるんですよ。みんなで成長していくと、雑草とは言いませんが、「立ち向かっていく強さ」みたいなものがでてきます。

変わらずにいるためには、自らを変え続けること

廣渡 少し話は変わりますが、選手たちのセカンドキャリアについてはどのようにお考えですか。引退してもまだまだ人生は長いですし、いろいろな選択肢があるのだと思いますが。

平井 プライベートについては何も口は出さないんですけど、話はするようにしています。何に興味があるか、とか。

北島 練習に関係のない話も結構していて、先生は歴史の話とかさせたらめっちゃ長いんです。あとは、海外合宿の食事の場で、まだメダルも獲っていないうちから、「金メダルを獲ったらプロになれ、かっこいいスポンサーをつけろ」って夢を見せてくれたこともありました。あの時、もし先生がそんな話をしてくれなかったら、今のキャリアは実現しなかったかも知れません。

平井 オリンピックで活躍したからといって、きちんとしたセカンドキャリアに就けるとは限らないんです。だから、「水泳しかできないようじゃ困るし、みんなに尊敬されるように努めるべきじゃないか」と問いかけるようにはしていました。康介の場合は、上手いんですよ、人を巻き込むのが。物事の優先順位をはっきりつけられるタイプでした。

廣渡 先ほどおっしゃっていましたが、みなさん純粋だからセカンドキャリアに就くのがなかなか難しいという面もあるのでしょうか。

北島 日の当たるところばかりがセカンドキャリアじゃないと思っています。ただ、ぼくはどうしても「引退後何をするのか」と見られてしまうので、水泳で培ったものを活かしながら貢献していきたいと考えました。

平井 今の康介は、現役時代のチームアップを自らの経営に応用しているような印象がありますね。人をその気にさせるんです。それと特徴的なのが、メダルを獲ってから成績を維持している年月が長いということ。この年月の間にたくさんの人と出会い、さまざまな経験を積んでいくなかで、人間としての価値観が大きく変わっていくんですよ。

廣渡 もちろん、長い年月のなかで周囲の顔ぶれなんかも変わっていきますからね。

平井 そう、泳いでいる間にセカンドキャリアに向けた準備ができていく、といったところでしょうか。

北島 学生から社会人と、平井先生の指導を仰ぎながら成長できる環境が嬉しくて、正直あまり意識していませんでした。

平井 たとえば、イギリスのウイスキーは、レシピを守り続けている結果、長い年月のなかで品質が変わっていくそうなんです。ところが、日本のウイスキーは品質を変えないためにレシピを変える。

廣渡 なるほど。

平井 康介にしても、ぼくのところで練習して、一度環境を変えたあとで、また戻ってきて。選手としてのキャリアは維持しているんですが、内容は全く異なっています。

北島 変えていかないと、「変わらずにいる」ことはできない。

廣渡 とても貴重なお話が伺えている途中で心苦しいのですが、お時間がきてしまったようです。最後に平井さんから、今後の北島さんに期待するところがあれば、ぜひコメントいただければと思います。

平井 そうですね、選手としてのキャリアを終え、社会人としても軌道に乗っている印象です。東京オリンピックもありますし、スポーツを通じて日本の顔になれるようにがんばってもらいたいと思います。

廣渡 そんな平井先生に向けて、北島さんいかがでしょうか。

北島 先生は、選手の悪いところを受け取って(ご自身の)身体を痛めてしまうところがあるので心配ですが、2020年は、平井先生が選手といっしょに喜んでいる姿が見たいです。

平井 もっと現場に集中したいです(笑)。変わらないために変えていかなきゃいけないのは、コーチにとっても大変(笑)。

廣渡 ぜひ体には気をつけてください。
おふたりとも、本日はありがとうございました。

  • 平井 伯昌

    平井 伯昌

    ひらい のりまさ

    1963年生まれ。早稲田大学卒業後、東京スイミングセンターに入社し、アテネ五輪、北京五輪で北島康介選手に2大会連続の2つの金メダル、中村礼子選手に2大会連続の銅メダルをもたらす。2008年、競泳日本代表ヘッドコーチに就任し、ロンドン五輪で寺川綾、加藤ゆか、上田春佳選手に銅メダルを獲得させる。13年4月、東洋大学法学部准教授、水泳部の監督に就任。17年4月より同教授。 競泳日本代表監督。その他の主な指導選手は、星奈津美、萩野公介、大橋悠衣。

  • 北島 康介

    北島 康介

    きたじま こうすけ

    1982年生まれ。2004年アテネ五輪、2008年北京五輪100m・200m平泳ぎで日本人唯一となる2種目2連覇を達成。2009年に現役選手でありながら株式会社IMPRINTを設立し、スイミングクラブKITAJIMAQUATICS、プライベート流水プールAQUALABの運営等を行う。2015年にはPerform Better Japanを設立。2016年に選手活動を引退。現在はコカ・コーラのチーフ・オリンピック担当・オフィサーとして活動する他、東京都水泳協会の副会長を務め、自身の冠大会「KOSUKE KITAJIMA CUP」を開催している。

  • 廣渡 嘉秀
    interviewer

    廣渡 嘉秀

    ひろわたり よしひで

    株式会社 AGSコンサルティング 代表取締役社長 AGS 税理士法人 代表理事

    1967年、福岡県生まれ。90年に早稲田大学商学部を卒業後、センチュリー監査法人(現 新日本監査法人)入所。国際部(KPMG)に所属し、主に上場会社や外資系企業の監査業務に携わる。94年、公認会計士登録するとともにAGSコンサルティングに入社。2008年より社長就任。09年のAGS税理士法人設立に伴い同法人代表社員も兼務し、現在に至る。

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